緋色と瑠璃色
空中に張り巡らされた糸に触れて。気紛れに糸を引く。
誰もいない静かな部屋に、ひとり。細い細い糸へ縋るように手を伸ばして。
「へーえ、何だかんだお兄ちゃんやってるぅ〜!」
静寂を突き破るおちゃらけた声に目を見張る。疑念と期待で混ぜこぜになった心で声の方向に振り向いた。
そこには、窓枠に頬杖をついてニヤニヤとこちらを笑う男がいた。
悪魔の顔を模したかのような大きなエナン帽子。その牙のような装飾品の隙間から覗くのは緋と白に分かれた短髪。
片割れの髪色と同じ、スカーレットの双眸は帽子の陰に隠れていようと妖しく輝いては視線の先の僕を確かに見据えている。
認めたくはないが、待ち焦がれていた男がそこにいた。
「つーか、この部屋、俺の研究室だったのに、見る影もなくなっちゃってんじゃん!」
ぬいぐるみだらけにしてくれてさぁ〜、と奴は文句を垂れながら窓枠をひらりと飛び越えて室内に入ってきた。
奴はぶつぶつと言いながら僕の集めたぬいぐるみを摘み上げては宙に放っていく。
「……土足厳禁」
「はぁ!? お前、久々に会った師匠にもっと言うことあるだろ!? もっとこう、涙の再会とか! それもそれで気味が悪いけどさ! あと俺、浮いてるからノーカン!」
言わせておけば口うるさい男だ、と顔をしかめて耳を塞ぐ素振りを見せてやる。
けれど目の前の人物が本物か、はたまた妄想が見せた幻影なのか未だに理解できずに、混乱に縛られて思うように動けない。
奴は僕の姿をもう一度見据えてから何か言いた気に口ごもった後、空中で胡座をかいてこちらを窺い見た。
「ふん、言うことだと? ないと言う方が無理な話だ。今さらどの面下げて帰ってきた」
「そんなこと言って、寂しかったクセに」
惑う心とは裏腹に口を突いて出た言葉は、前と変わりもしない高慢なそれだった。そして奴も変わっていなかった。
にんまりと、煽るように。奴はそう言葉を返したのだ。
カッと頭に血が上って突き動かされるように足が動いた。奴に詰め寄る。
これが己の見せた幻というなら、本当に精巧すぎて自分の才能の高さにため息が出るではないか。
「よくもこんなに美しく愛らし僕を誑かしておいて、いきなり姿を消しただろう。どういうことだ」
「どうもこうもない。せんせーは君より大事なお仕事をしていただけさ」
胸元のチャームに糸を絡ませ、強く引く。
それを見越していたのか男は大して驚きもせずに、ぐんと近づいた己の顔を見てそう返した。
怒りを露わにする己とは対極に、余裕綽々な表情で、平然と。
吠えるだけ無駄とは思っていたが、あまりにも2人の感情に落差がある。それが悔しくて悔しくて。
けれど放っておけば飽き足らずに溢れ出そうになる罵詈雑言を無理やり飲み込んで一息ついた。
「まぁ、いい。それならば、今度こそお前を僕の糸に下らせてやろう」
もう二度と、手離さぬように。縛り付けてしまえ。
そうすれば、そうすれば。お前はもうどこにも行けやしない。なあ、そうだろう?
「――本当に?」
糸を繰り出すよりも早く、奴の手が伸びた。
てっきり魔法で対抗されると思っていたので、予想外の展開に判断がワンテンポ遅れる。
けれどこちらの方が早かったのか、片腕を掴まれながらも奴の身体は床に沈んだ。
仰向けになった奴へつかさず馬乗りなって押さえつける。
体重と両脚で身体を封じ込み、まずは己の腕を掴んだ手とは別の手の動きを糸で制約させた。次に身体を縛めて抵抗など出来ぬようにこの糸で絡めとる。
必死だった。けれども、こうもアッサリと上手くいったことに愉悦の笑みが零れる。
視線を下ろせば、揉みくちゃになったせいでずり落ちたあの帽子が奴の顔を覆って表情を隠していた。
その砦の下にどんな表情を隠しているのだろうか。屈辱? 憤慨? それとも――?
重たそうな帽子を取り去ってやろうと身を乗り出せば、奴の身体に己の影が落ちていく。
色素の薄い髪が重力に従って肩からさらり、と零れていった。
「糸の使い方覚えたからって、なんでもかんでもお前の思い通りにはならねーよ」
これだけ縛めているのにまだ余裕そうな表情で奴はそう言った。
その表情が、その声色が、過去の奴と重なって、かあっと己の顔が熱くなるのを感じた。
「うるさ、い……ッ」
「う、ぐっ。いってーな、コノヤロ。息まで止めるつもりか?」
歯噛みしながら言葉を吐き捨てると共にさらに指を引く。ギチッ、と見えないどこかから嫌な音がした。
だめだ。これだけじゃ足りない。
もっと、もっと縛り付けなくては。そうでなければまたどこかへ逃げられてしまう。
僕は、僕のものが勝手にいなくなることがいちばん嫌いだ。僕は、このままでいいんだ。変化なんて、必要ない。
だから、あとはお前がここへ戻ってくれば、すべてはあの時のまま、元通りなんだ。
そのために、僕はずっとここでお前が戻ってくるのを待っていたんだから。
――そうでなければ。また、僕は放り出されるのか?
術を操り続ける思考の隅で走馬灯のように旧い旧い記憶が流れ込んだ。
それは目まぐるしく時計の針を進めていきながら膨れ上がり、濁流のように思考を乱していく。
幼い誰かのこども。手を繋いだふたり。差し出されたてのひら。
高い塔の上。寂れた天上から見える下界はひどく煌めいていて。
そこから己のために会いに来るのはひとりの男。魔道具をじゃらじゃらとぶら下げ、緋色の双眸を愉快そうに細めて話す男。
声を漏らそうにも息すら吐き出せない。意味をなさない言葉でも、喉に詰まっては溜まっていき渦巻いていく。
喉元を掴むように手を添えた。それでも何も変わらない。
代わりに、何かが零れ落ちた。それが何かを理解した途端、意識は遠い何処かへ弾け飛んだような感覚を最後に覚えて。
その後はもう、何も分からなかった。
☆
身体にかかる奴の長い髪さえも自分を拘束する糸のようだ。
陽の光に透けてキラキラと輝くそれは、持ち主の心とはきっと真逆の色彩なのだろう。
手を伸ばそうにも絡め取られた身体は言うことをきかない。その色に触れることは許されない、と言わんばかりに。
さてどうしたものか、と悠長に考えている暇もない。
甘んじて2年分の恨みつらみを聞いてやろうかと思ったが、いかんせん自分は奴を甘く見すぎていたようだ。
誰もいない静かな部屋に、ひとり。細い細い糸へ縋るように手を伸ばして。
「へーえ、何だかんだお兄ちゃんやってるぅ〜!」
静寂を突き破るおちゃらけた声に目を見張る。疑念と期待で混ぜこぜになった心で声の方向に振り向いた。
そこには、窓枠に頬杖をついてニヤニヤとこちらを笑う男がいた。
悪魔の顔を模したかのような大きなエナン帽子。その牙のような装飾品の隙間から覗くのは緋と白に分かれた短髪。
片割れの髪色と同じ、スカーレットの双眸は帽子の陰に隠れていようと妖しく輝いては視線の先の僕を確かに見据えている。
認めたくはないが、待ち焦がれていた男がそこにいた。
「つーか、この部屋、俺の研究室だったのに、見る影もなくなっちゃってんじゃん!」
ぬいぐるみだらけにしてくれてさぁ〜、と奴は文句を垂れながら窓枠をひらりと飛び越えて室内に入ってきた。
奴はぶつぶつと言いながら僕の集めたぬいぐるみを摘み上げては宙に放っていく。
「……土足厳禁」
「はぁ!? お前、久々に会った師匠にもっと言うことあるだろ!? もっとこう、涙の再会とか! それもそれで気味が悪いけどさ! あと俺、浮いてるからノーカン!」
言わせておけば口うるさい男だ、と顔をしかめて耳を塞ぐ素振りを見せてやる。
けれど目の前の人物が本物か、はたまた妄想が見せた幻影なのか未だに理解できずに、混乱に縛られて思うように動けない。
奴は僕の姿をもう一度見据えてから何か言いた気に口ごもった後、空中で胡座をかいてこちらを窺い見た。
「ふん、言うことだと? ないと言う方が無理な話だ。今さらどの面下げて帰ってきた」
「そんなこと言って、寂しかったクセに」
惑う心とは裏腹に口を突いて出た言葉は、前と変わりもしない高慢なそれだった。そして奴も変わっていなかった。
にんまりと、煽るように。奴はそう言葉を返したのだ。
カッと頭に血が上って突き動かされるように足が動いた。奴に詰め寄る。
これが己の見せた幻というなら、本当に精巧すぎて自分の才能の高さにため息が出るではないか。
「よくもこんなに美しく愛らし僕を誑かしておいて、いきなり姿を消しただろう。どういうことだ」
「どうもこうもない。せんせーは君より大事なお仕事をしていただけさ」
胸元のチャームに糸を絡ませ、強く引く。
それを見越していたのか男は大して驚きもせずに、ぐんと近づいた己の顔を見てそう返した。
怒りを露わにする己とは対極に、余裕綽々な表情で、平然と。
吠えるだけ無駄とは思っていたが、あまりにも2人の感情に落差がある。それが悔しくて悔しくて。
けれど放っておけば飽き足らずに溢れ出そうになる罵詈雑言を無理やり飲み込んで一息ついた。
「まぁ、いい。それならば、今度こそお前を僕の糸に下らせてやろう」
もう二度と、手離さぬように。縛り付けてしまえ。
そうすれば、そうすれば。お前はもうどこにも行けやしない。なあ、そうだろう?
「――本当に?」
糸を繰り出すよりも早く、奴の手が伸びた。
てっきり魔法で対抗されると思っていたので、予想外の展開に判断がワンテンポ遅れる。
けれどこちらの方が早かったのか、片腕を掴まれながらも奴の身体は床に沈んだ。
仰向けになった奴へつかさず馬乗りなって押さえつける。
体重と両脚で身体を封じ込み、まずは己の腕を掴んだ手とは別の手の動きを糸で制約させた。次に身体を縛めて抵抗など出来ぬようにこの糸で絡めとる。
必死だった。けれども、こうもアッサリと上手くいったことに愉悦の笑みが零れる。
視線を下ろせば、揉みくちゃになったせいでずり落ちたあの帽子が奴の顔を覆って表情を隠していた。
その砦の下にどんな表情を隠しているのだろうか。屈辱? 憤慨? それとも――?
重たそうな帽子を取り去ってやろうと身を乗り出せば、奴の身体に己の影が落ちていく。
色素の薄い髪が重力に従って肩からさらり、と零れていった。
「糸の使い方覚えたからって、なんでもかんでもお前の思い通りにはならねーよ」
これだけ縛めているのにまだ余裕そうな表情で奴はそう言った。
その表情が、その声色が、過去の奴と重なって、かあっと己の顔が熱くなるのを感じた。
「うるさ、い……ッ」
「う、ぐっ。いってーな、コノヤロ。息まで止めるつもりか?」
歯噛みしながら言葉を吐き捨てると共にさらに指を引く。ギチッ、と見えないどこかから嫌な音がした。
だめだ。これだけじゃ足りない。
もっと、もっと縛り付けなくては。そうでなければまたどこかへ逃げられてしまう。
僕は、僕のものが勝手にいなくなることがいちばん嫌いだ。僕は、このままでいいんだ。変化なんて、必要ない。
だから、あとはお前がここへ戻ってくれば、すべてはあの時のまま、元通りなんだ。
そのために、僕はずっとここでお前が戻ってくるのを待っていたんだから。
――そうでなければ。また、僕は放り出されるのか?
術を操り続ける思考の隅で走馬灯のように旧い旧い記憶が流れ込んだ。
それは目まぐるしく時計の針を進めていきながら膨れ上がり、濁流のように思考を乱していく。
幼い誰かのこども。手を繋いだふたり。差し出されたてのひら。
高い塔の上。寂れた天上から見える下界はひどく煌めいていて。
そこから己のために会いに来るのはひとりの男。魔道具をじゃらじゃらとぶら下げ、緋色の双眸を愉快そうに細めて話す男。
声を漏らそうにも息すら吐き出せない。意味をなさない言葉でも、喉に詰まっては溜まっていき渦巻いていく。
喉元を掴むように手を添えた。それでも何も変わらない。
代わりに、何かが零れ落ちた。それが何かを理解した途端、意識は遠い何処かへ弾け飛んだような感覚を最後に覚えて。
その後はもう、何も分からなかった。
☆
身体にかかる奴の長い髪さえも自分を拘束する糸のようだ。
陽の光に透けてキラキラと輝くそれは、持ち主の心とはきっと真逆の色彩なのだろう。
手を伸ばそうにも絡め取られた身体は言うことをきかない。その色に触れることは許されない、と言わんばかりに。
さてどうしたものか、と悠長に考えている暇もない。
甘んじて2年分の恨みつらみを聞いてやろうかと思ったが、いかんせん自分は奴を甘く見すぎていたようだ。
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